先日、ベルリンからエテルナレーベルのLPが多量に入荷した。
これらはすべて、このレーベルのエンジニアだったクラウス・シュトリューベンのコレクションである。
これらを整理・試聴しながらエテルナレーベルについて多方面から魅力を探っていこう。
今回はその第一回。
このレーベルの歴史を調べてみよう。
ETERNAレーベルの歴史
第二次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、文化活動もそれぞれの体制のもとで独自の道を歩むこととなった。東ドイツ(ドイツ民主共和国)においてクラシック音楽を担う国営レーベルとして設立されたのが このETERNA である。
創設は1947年、ベルリンに設立された「ドイツ音楽出版・録音協会(VEB Deutsche Schallplatten)」の一部門としてスタートした。
西側にはDGGやTELEFUNKENといったレーベルが存在したが、ETERNAは社会主義国家の文化政策の一環として誕生し、以後DDR唯一のクラシック専門レーベルとして半世紀近くにわたり活動を続けることになる。
当初はSP盤の制作から始まったが、1950年代後半にステレオ録音の波が訪れると、ETERNAもいち早くその技術を取り入れた。この時期に登場したのが、コレクターの間で珍重される 緑ラベルや白扇ラベルの初期ステレオ盤 である。
西側のレーベルに比べ派手な宣伝やジャケットデザインは控えめだったが、その録音は誠実で自然な音作りを特徴とし、現在でも高い評価を得ている。録音の要となったのはクラウス・シュトリューベンら優れたエンジニアたちで、ホールの響きを忠実に捉える手腕は世界的にも称賛されるものであった。
ETERNAが果たした最大の役割の一つは、東側の巨匠たちの録音を数多く残したことである。ヴァイオリンのオイストラフ、チェロのロストロポーヴィチ、ピアノのリヒテルやギレリスといったソ連の大音楽家たちは、政治的な事情で西側レーベルへの録音機会が限られていた。その多くをETERNAが担い、豊富なディスコグラフィを形成した。
また、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やドレスデン・シュターツカペレ、ベルリン放送交響楽団といった東独の名門オーケストラの録音も網羅され、結果的にETERNAは「東欧音楽文化のアーカイブ」としての価値を担うことになった。
1960年代以降は黒ラベルの時代に入り、レーベルのデザインや製造体制も安定していく。この頃のETERNA盤は、西側のDECCAやDGGに比べて国際的な流通は限られていたが、一部は「MELODIA」など他国のレーベルを通じて西側にも供給され、徐々に知られる存在となった。とはいえ、輸出用の盤は全体のごく一部であり、多くは東側諸国で消費されるにとどまった。この限定性こそが、今日のコレクター市場におけるETERNA盤の希少性を高めている要因でもある。
1970〜80年代になると、ETERNAは国家の文化政策を背景に、世界的にも高水準の録音を継続した。オーケストラの配置やホール選びに工夫を凝らし、特に室内楽や合唱作品では他レーベルにない透明感と厚みを兼ね備えた録音を残した。一方で、西側レーベルのような大規模な国際プロモーションは行われず、その存在は依然として一部のマニアに限られていた。しかし、内部的には国家予算による安定した制作環境を享受し、着実に録音を積み重ねた点もETERNAならではの特徴といえる。
1989年、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が進むなかで、ETERNAも大きな転機を迎える。1990年には旧東独の国営企業「VEB Deutsche Schallplatten」が解体され、ETERNAレーベルは民営化されて複数の会社に引き継がれた。その過程で録音資産の一部はベルリン・クラシックスなど新興レーベルから再発され、CD時代を通じて再び脚光を浴びることになった。しかし、かつてのETERNAというレーベルそのものは姿を消し、コレクターが手にできるのは往年のLP盤が中心となった。
今日、ETERNAのLPは世界中のコレクターにとって憧れの的である。初期の緑ラベルや白扇ラベルは音質の良さと希少性から高額で取引され、後期の黒ラベルであっても、録音内容や演奏家によっては高い需要がある。単なる再生用メディアではなく、東独という特殊な歴史環境の中で生まれた文化遺産としての価値を帯びているのだ。
総じて、ETERNAレーベルの歴史は、東ドイツの政治・文化の歩みと不可分であり、同時に20世紀音楽史における「もう一つの正史」としての意義を持っている。華やかな西側レーベルの陰で、ひたむきに音楽を記録し続けたETERNA。その誠実な音作りと、重く陰影を帯びた独特の響きは、今もなお多くの人々の心をとらえて離さない。
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