4月20日はイタリアの名指揮者であった、ジュゼッペ・シノーポリの命日でした。
これは、彼の死に偶然立ち会うことになった私の思い出です。
シノーポリの死
金子 学
2001年から2002年の間、私はベーレンプラッテの立ち上げ準備のため、半分以上の間、ドイツやオーストリアで過ごした。
主な目的は、販売用のLPの仕入れと、その入手ルート開拓のためであるが、役得(?)で業務終了後の夜間は、もっぱらコンサートホールやオペラハウスにせっせと通った。そのおかげで、私はかの地で名演奏や名舞台に数多く接することができた。
なかでも、2000年の大病を克服したアバドやハイティンク、そしてわれらが小澤征爾らのウィーンやベルリンでのコンサートなどは、とても感動的で今でも時々思い出すことがある。
しかし、2001年4月20日の体験は、あまりにも衝撃的で、悲しい出来事になってしまった。
この日のベルリン・ドイツ・オペラ(DOB)には開演前から異常な緊張が張り詰めた。ジュゼッペ・シノーポリが、久しぶりにこのハウスで、「アイーダ」を指揮するからだ。それも、この数か月間に世を去った、ここの総監督(そして名演出家だった)ゲッツ・フリードリヒのために。
1980年代、シノーポリとフリードリヒはここで数多くのオペラを製作し、成功を収めた、そして1990年からは、シノーポリはDOBの音楽監督として彼とさらに親密に創作に励むはずであったが、その直前に二人は決別別してしまう。このあと、シノーポリはDOBで一度も指揮することはなかった。
その10年後、フリードリヒが和解を申し出て、この公演が実現の運びとなった。
ところがこの数か月後に、フリードリヒが急逝、期せずして、この「アイーダ」はフリードリヒの追悼公演となってしまった。
彼はこの日の公演のために、「ゲッツ・フリードリヒのための“アイーダ”」という追悼文を書き、その日の公演プログラムに急遽挟み込まれた。
公演は、19時30分に始まった。
満席の客席が暗くなり、シノーポリが現れると、大きな拍手とヤジがとんだ。ヤジの内容は残念ながら聞き取れなかったが、フリードリヒ擁護派のからのようであった。
オペラの前半(第一幕と第二幕)の演奏は、非常に感動的だった。これまでには聴いたことない「アイーダ」を聴いた感じであった。例えば、有名な第二幕の「凱旋の場」。豪華絢爛な舞台ではあるが、その華やかさよりも、各登場人物の心の格闘が痛いほど感じられ「アイーダ」が持っているドラマの核心に触れたと感じた。(実は、このあたりから、シノーポリは、体調の異変を感じていたという)
休憩後、第三幕が始まる。
後から知ったのであるが、第三幕の開始後5分くらいから、ピット内では彼の体調の異変からくる演奏上のトラブルが起こっていたらしいが、客席の私には全く見えなかった。というより、舞台上の壮絶なドラマに追いついていくのにやっという感じであった。
事件は、このあと起こった。アイーダとラダメスの二重唱がちょうど頂点をむかえようとして時であった。舞台のほうで、「ドスン」という鈍い音がした。その数秒後、オーケストラがばらばらと演奏を止め、幕が下りてしまった。
私は、始めはなにか舞台上の大道具かなにかに不具合が起きたと感じた。
客席ががやがやとなり始めた頃、舞台上のカーテンの隙間から、アイーダ役のデッシーが顔を出しピットの中を覗き込んだ矢先、「キャー」と大きな叫び声をあげた。
私を含めた聴衆は、このときはじめてオーケストラピットの中で、なにか事故が起きたことを知った。
その後、ピットの中のチェロ奏者が、
「誰か、心臓のお医者さんはいませんか?」
と大きな声で問いかけたあたりから、どうやら指揮者のシノーポリが倒れたといことを会場の人々は気づき始めた。(楽団員の誰かが、病気などで倒れても、音楽を止めることはほとんどない)
そうしているうちに、場内放送で「ここにいる人は、すべてロビーに出るように」と指示がでた。
ロビーでしばらくして、ロビーのバーコーナーのカウンターに、係員駆け寄ってきて、その上に飛び乗り、観客に向かって、
「指揮者が倒れてしまったので、公演は中止になりました。上演は半分以上(全四幕のうち三幕の途中まで)行われたので、成立したものとみなし、払い戻しはありません!」
と告げた。
私は、暗澹たる思いでオペラハウスを後にした。気が付いたら、救急車が停めてあった楽屋口にいた、しばらくしたら彼が担架で病院に運ばれていった。
翌朝、私はウィーンの友人に昨晩に起こったことを電話で話した。
友人は、
「えっなんだって、君はそこにいたの。さっきテレビのニュースで彼が亡くなったことを伝えていたよ」
と教えてくれた。
翌22日は、同じキャストの「アイーダ」上演予定があっが、緞帳の隙間から彼の死を目の当たりにしたタイトルロールのデッシーはキャンセル、指揮は代役を立てての興行となった。
今度は、シノーポリの「追悼公演」として。
(ベーレンプラッテ店主)