ゾフィーエンザール(SS189号)

ゾフィーエンザール(SS189号)

先日ウィーンを訪問した際、DECCAの録音スタジオとして有名な「ゾフィーエンザール」を訪問してきた。
2001年の火災で全焼してしまったが、いまでは見事に再建され、現在ではホテルやフィットネススタジオなどを併設する複合施設として使用されている。(以前の録音スタジオはイベントスタジオや宴会場として使われている。)


そこで、今回はちょっと古い文章ではあるが、以前ステレオサウンドの当店のPRページに書いた文章を。(2013年の189号)

ゾフィーエンザール再建!

  ショルティの「指輪」やカラヤン若き日のウィーンフィルとの録音で有名な「ゾフィーエンザール」は、ウィーン空港から市内への直通列車、通称「CAT」で15分ほどのところにある、ウィーン中央駅(ミッテ)から徒歩五分ほどのところに位置する。

現在(201310月)は、約2年を要した再建工事も最終段階に入り、来年早々には、建物の周りの囲いもとれることであろう。 

さて、ここでその歴史をたどってみたい。

その歴史

ゾフィーエンザールのルーツは結構古い。

実はこの建物、完成直後は、レコード録音とはまったく別の目的で使われていた。

ボヘミアからやってきた実業家フランツ・モラヴィッツが、これまで営んできた染物工場をたたみ、この建物を、ロシア式の蒸し風呂に改装して新たなスタートを切ったのは1838年のことであった。これより、彼の成功の歴史が始まることとなる。

ある日、ひとりの病に苦しむ女性がここを訪れる。彼女こそ、オーストリア帝国皇帝となるフランツ・ヨーゼフの母、ゾフィー大公妃に仕えていた女官なのである。

幸運にも、この女性、モラヴィッツの浴場のおかげ(?)ですっかり健康を取り戻すことができた。それが、口コミでウィーン中に広まり、一気にこの浴場が有名になってしまう。これ以降、ここは、「ゾフィーエン浴場」(ゾフィーエン・バート)と呼ばれるようになる。

これに気をよくしたモラヴィッツは、ウィーンの市民憩いの場所となったこの浴場を、後年ウィーン国立歌劇場の設計チームの一員となるファン・デア・ニルとシッカーズ・フォン・シッカーズブルクに改装を依頼する。この工事が行われたのが1848年のことであった。

この建物こそ、デッカ・チームの黄金時代の本拠地のひとつ「ゾフィーエンザール」のルーツである。

当時の建物は、夏は「バート」(温泉)の名前どおり温水プールとして使用され、冬になると湯を抜かれ、水槽の上にふたがかぶせられ、舞踏会場として使われた。かのシュトラウス・ファミリーもここの舞踏会のためにワルツ等の作品を残すほどの盛況だったという。そして、その後も何回も改装工事が行われた。

第二次大戦中は、ナチスのもと、強制収用所に送られるユダヤ人の留置所としてもっぱら使用された。(2011年のザルツブルク音楽祭で上演された「影の無い女」は、この事実が演出のアイディアの基となった)そして戦後は、1948年に今一度改装工事が行われ、その数年後の1950年代後半、いよいよデッカの録音スタジオに生まれ変わることになる。

感動のサウンドの秘密

以前、ショルティ指揮の「ラインの黄金」録音セッションのドキュメンタリーのDVDがリリースされたことがある。これを見ると、偶然の産物とはいえ、ゾフィーエンザールがいかに録音スタジオとして理想的な音空間だったかがわかる。 

まず、天井が非常に高く、空間がゆったりとしている。これは、音のよいホールの必要条件である。これが満たされないと、音響に奥行きがなくなり、オーケストラの最強奏では、響きがやせてしまって楽しめなくなる。

次に窓が多いこと。なにせ、古い窓である。密閉度がよくない。そのため、内部の音が適度に外に漏れる。ということは、外部騒音も入ってくるので、これ自体はデメリットであるが、考えようによっては、音響的な空間の広さが無限大となり、さらに響きにゆとりが出てくる。(もちろんこれには限度があるが・・・)ちなみに、楽友協会ホールも同じく天窓がとても多い。

そして、床の構造である。プールの水槽の上に張られた床の下は空洞となっている。床下の大きな空洞こそが、あのDECCAのLPの独特の低音の秘密となっていることは明らかである。

 

理想的スタジオ

さらに、このダンスホールから生まれたホールは、数々の名盤をサポートしてきたことからも、録音用スタジオとしても理想的な使い勝手の建物であることがうかがえる。

普通のコンサート・ホールの数倍はあるかと思われる広い床面積。これにより、編成がどんなに大きくとも、録音にもっとも適したオーケストラや合唱団の配置が可能になる。

また、その床面積の大きさ故、どんな複雑なマイクセッティングも可能となる。カルーショウはじめ、録音の天才たちが、その天分を心置きなく発揮できたことも、DECCAサウンドがあれだけ、わたしたちの心を揺さぶり続けている理由かもしれない。 

悲劇の到来、そして

その時は突然やってきた。

バカンス最中の2001816日の昼下がり、建物の中央正面の一部をのぞいて、かつての名盤のふるさとはほぼ全焼してしまった。このニュースは、日本のメディアでも取り上げられたので、ご存知の方もいらっしゃると思う。

 

もうあれから十年以上。火事以来、ほとんど建物はほったらかしにされ、わずかに残った建物の一部は廃墟と化し、瓦礫の山には雑草さえ生えていたが、3年ほど前から再建工事が始まり、さきほど述べたように現在では工事も佳境を迎えている。

たぶん、使用目的は私の期待通りにはいかないと思うが、ウィーンを訪れる楽しみが一つ増えたことは間違いない。

 

参考文献:レコード芸術200379月号

     (音楽之友社)